阿部亀治と亀ノ尾

亀ノ尾の里資料館

<あまるめの民間育種家> ~水稲品種「亀ノ尾」の創選者~
阿部 亀治(1869~1928)

亀治は慶応4年(明治元年:1868年)3月9日、庄内町小出新田の農家阿部茂七の長男として生まれた。6歳から寺子屋に通いやがて学校に変わったが、家計の都合で高等科に進むことが出来ず12歳で退き、父祖の農業に従事する。しかし独学で学ぶことを怠らなかった。

当時この地方の水田は、すべて湿田で収穫も少なく生計は豊かでなかった。研究心に富み農事に熱心な亀治は、早くから余目村の老農・佐藤清三郎について学んでいたが、明治18年17歳の時に、政府が出した「済急趣意書」に感銘をうけ、率先して先進地における乾田の有利なのを見聞し、同志等とこれが普及を図り、多くの反対を受けながらもその成功を期して努力した。

明治26年、山形県下は一般に稲作は不良で、稲の倒伏が甚だしかった。そんな中で、同年9月29日立谷沢村の熊谷神社に仲間と共にお参りに行った亀治は、冷害にも拘らず「惣兵衛早生」種(水口に植える冷立稲の一種)の一株の内に健全に結実している三本の稲穂を発見、これを抜穂して持ち帰った。そして翌年からこれを原種として淘汰整理に苦心し、4年をかけて病気にも虫にも強い固定種を生み出したのである。これが「亀ノ尾」である。

亀治は、亀ノ尾創選後も年々、厳密な抜穂を行い、性質の変異を防ぐべく努力し、年々20石乃至40石余の種籾を交換し、原質維持に努めた。たまたま明治38年宮城・福島が大凶作に陥り、庄内に多量の種子購入の申込みを受けた際に、その中に亀ノ尾の注文も大量にあったことから、原質維持のため宮城県庁に精選した種子1斗を寄付、同時に東田川郡農会にも同種1斗を寄付した。また直接、種籾を譲ってもらいに来た人には「うちの米が良くて作るなら、代金はいいから・・・」と無料で譲り、或いは「代金は後で送る」と言われたまま送られて来ないことがあっても決して怒ることなく、亀ノ尾が全国へと広がることを喜びとし、金や欲に執着せず、その後も研究を続け、熱心に農業改良に取組んだ。

大正10年には大日本農会より有功賞を授与され、同14年には皇太子殿下に拝謁の栄に浴した。そして昭和2年には藍綬褒章を受賞、これを記念して同年、小出新田の八幡神社境内に頌徳碑が建立された。この除幕式には亀治も臨んだが、翌3年(1928年)に61歳でその生涯を閉じた。

水稲「亀ノ尾」種の由来とその誕生

明治26年(1893年)は大凶作の年であった。この年の9月29日、東田川郡庄内町肝煎(旧立谷沢村地内)中村集落にある熊谷神社に参詣の折、近くの水田の水口に植えられていた「惣兵衛早生」種(水口に植える冷立稲の一種)の中に倒伏しないで、たわわに結実した優れた稲穂三本が亀治の目にとまった。その三本の稲穂をもらい受け、抜き取って持ち帰った。

亀治は、翌年からささやかな試験田(圃)で四年間にわたり比較栽培試験を行った。苗の密度や水のかけ引きや肥料のやり方などの組み合わせをさまざまに工夫し、何度も失敗しながら研究を重ね、大事に三本の稲穂の種籾を殖やし、さらに、抜き穂を重ねて、これを一つの品種として固定させたのである。

明治30年の大冷害でも亀治の新品種の田圃だけが結実充分で黄金の稲穂の波を打ち、予想外の豊作となったことからその素晴らしさが実証されたのである。

この新しい水稲品種は、在来品種と比べ倒伏しにくく、風害や虫害に強く、多収で食味も良いことがわかった。

この水稲品種に友人が「亀ノ王」と命名するように勧めたが、王では僭越だとして「亀ノ尾」と命名した。ここに新品種「亀ノ尾」が創選・誕生した。そして、各地からの「亀ノ尾」種の種籾を分けて欲しいという要請に、亀治は快く応え、分け与えたこともあり、年々歳々、徐々に全国的(台湾・朝鮮半島にも)に普及した。
【彼は、「亀ノ尾」種の良い形質の保護(原形質の維持)にも努め、原形質の劣化した不純な「亀ノ尾」種が出回るのを防ぎ、原種の保存の意味から、自ら、気まえよく他県にも種籾を分け与えたという。】

大正14年(1925年)には、合計約20万町歩付けされ、「愛国」・「神力」と共にわが国三大水稲品種の一つに数えられた。

「亀ノ尾」種の普及とその時代背景

さて、この「亀ノ尾」が、こんなに急速に広い範囲に普及して行ったのには、その品種自体の優秀性もさることながら、もうひとつの見落としてならぬ背景があった。

「亀ノ尾」が生まれる前後の時期は、東北地方の稲作技術が一連の技術体系として大きく再編成されようとしていた過渡期であった。この一連の技術革新の牽引車となったのは、いわゆる乾田馬耕、つまり、土地改良と農作業の畜力化である。乾田馬耕導入が軸となって、肥料をたくさん使うようになり、田植えが正常植に改まり、水のかけ引きが合理化され、稲作技術全体の仕組みが変わって行くのである。そして、そのことは、必然的に稲の品種についても新しい技術の乾田馬耕に向いた新品種の出現を必要としていたわけである。

亀治は、そうした時代の背景を敏感に受けとめていた。だから、稲の品種改良だけに熱中していたのではなかった。村の人達に先がけて乾田馬耕を取り入れてもいたのである。

そのころの水田には一年中水が張ってあった。(※酸素が十分供給されず、肥料の分解が進まない。)そして、「田の水を抜くと罰があたる」ともいわれていた。

亀治は周囲の声には耳をかさずに、我流に田圃に溝を掘って乾田化した。村の人は、田圃の表面が乾き、ヒビ割れができたのを見て、「亀がタンボに亀の甲をつくった!」とはやしたてたそうである。

亀治は、遠くまで出かけて馬耕技術(耕地整理についても)を習い、それまで、鍬を使っていた耕起作業を馬耕に切りかえたのである。このように、亀治の品種改良の試みは、乾田馬耕を取り入れるのと平行して進められていたのである。つまり、亀治が育成した稲の新品種は乾田馬耕向きの新品種だったわけである。だからこそ「亀ノ尾」は、あれほど驚異的な普及ぶりをみせ、明治の末から大正時代にかけて、わが国の米作農業に大きく貢献できたものと思われる。

昭和期になり食糧増産が時代の要請となり、公設の農事試験場で水稲育種の研究が盛んになり、多肥多収の優れた新品種が次々と創選された。どちらかというと多肥に弱い「亀ノ尾」種は、飯米としての王座をこれらの新品種に奪われてしまい、飯米品種としては姿を消した状態となった。

現在の良質銘柄米の代表的な「コシヒカリ」「ササニシキ」「はえぬき」などは、「亀ノ尾」種のDNA(遺伝子)を有し、これらの良質米のルーツをたどると、その祖は「亀ノ尾」種であることがわかる。

近年、「亀ノ尾」種は酒米として優れていることが認められ、本町の鯉川酒造(株)を始め、全国三十数社の酒蔵で大吟醸酒などの原料米(酒米)として利用され、優れた酒米として称賛されている。